Part5 土呂久を語り継ぐ

鉱山跡案内

 土呂久鉱山は1962年、鉱毒による患者を置き去りにしたまま、江戸時代から350年におよんだ歴史を閉じた。350年のうち50年が亜砒焼きの時代だった。
 谷間の集落の真ん中で猛毒の亜砒酸をつくったことが悲惨な公害の原因だった。その歴史を学ぶとき、鉱山跡地の見学は欠かせない。鉱山労働の体験者が死んでしまい、鉱毒の歴史を伝えるために、鉱山跡の案内をするのは佐藤慎市さんである。慎市さんの両親と叔母は慢性砒素中毒症の認定患者だった。
 閉山から50年、裸だった山に草木がよみがえった。かつて鉱山があったことを物語るのは、つぶれたままの山神社、鉱毒の流出を防ぐ壁面、坑内水の排出がつづく大切坑くらいである。
 慎市さんは、元小学校教師の阪本暁さんが撮影した写真を示しながら、操業当時の環境汚染について説明する。写真には、朽ちた事務所や巻き上げ機や焙焼炉などが写っている。焙焼炉の中には数トンの亜砒酸が付着していた。猛毒物をそのままにして去った鉱山会社の無責任のあかしである。

土呂久鉱山跡(左)を案内する佐藤慎市さん