Part3 人権回復の願い

裁判と法を両立させた

 第2期東京行動はみるべき成果もなく終わり、高裁判決で命じられた返還金の重圧と長期裁判の不透明さが、土呂久をおおった。高齢化する被害者の胸の中で「一日も早く解決したい」という願いがふくらんでいった。
 1989年8月、大分県湯布院町に原告5人、支援者10人、弁護士11人が集まって合同会議を開いた。弁護士が「最高裁判決まで5年はかかると思う。高裁への差し戻しも考えられる」と見通しを語り、原告が「希望は一陣と二陣が同時に解決し、返還金を戻さずに、今後も公健法をもらいつづけることです」と述べると、弁護士から「きめ細かな解決は和解でないと無理」という見解が示された。禁句になっていた「和解」が初めて議題にのぼり、こんごは「命あるうちの救済」と「命あるかぎり救済」を目標に、裁判所を舞台にした話し合い決着へ方針を変更することになった。
 二陣訴訟の判決が言い渡されたのは1990年3月26日だった。一陣の一審と控訴審判決同様に、鉱山操業による環境汚染とその影響による全身の健康被害を認め、住友金属鉱山に総額2億1803万円の支払いを命じた。注目されたのは、原告が慰謝料を請求しているとみなし、「公健法の給付の中には慰謝料は含まれていない」と判断して、損害から公健法の給付を差し引かなかったことだった。原告が悲願とした裁判と公健法の両立がかなえられた。

二陣勝訴判決を喜ぶ原告 (宮崎日日新聞社提供)