Part3 人権回復の願い

都会の情けを知った56日間

 控訴審判決の近づく1988年9月19日、土呂久の被害者5人は「社長さんに会って上告しないように言いたい」と、支援者30人とともに東京の住友金属鉱山本社を訪ねた。社員から「判決の前も後も交渉はしない」と拒まれ、そのまま玄関先ひさしの下に10枚の古畳を敷いて座り込んだ。ビニールシートに囲まれた空間に、粗大ごみから拾ってきたロッカーや机や茶箪笥やこたつを置いて、「いのちの広場」と呼んだ。
 10月3日、高裁で苦渋の判決を受けた原告がこの広場に合流した。社長交渉を求める座り込みは56日間つづき、この間、山奥のむらの鉱毒被害者を応援する多くの人たちがやってきた。「いのちの広場」は、自然につつまれた谷間で暮らす村人と、高層ビルの谷間で管理されて生きる都会人との交流の場になった。公害患者の甦りを求める闘いの場は、都会人が企業本位の社会からいかにして人間性を復権するかを思案する道場になったのだ。
 「社長が原告と話し合うから、合意の成立した時点で座り込みを解くこと」という住友鉱の提案を、被害者が「座り込みの解除をねらった形だけの話し合いにはのらない」と蹴って、11月13日に自主的に撤去して幕をおろした。きれいに掃除された「いのちの広場」跡に、西浪さんが「都会の人の情けを肌で知ったわの」という言葉を残して去った。

いのちの広場