Part3 人権回復の願い

土呂久を伝えるスピーカー

 東京では1980年代初め、土呂久公害に関する川原一之著「口伝 亜砒焼き谷」、映像集団エラン・ヴィタルの記録映画「咽び唄のさと 土呂久」、芥川仁著の同名の写真集を目にすることができた。これらの作品を通して関心をもった市民が、1981年9月初めて土呂久を訪れた。対馬幸枝さんはそのときの印象をこう書いている。
 「土呂久の人々はこよなくあたたかく優しかった。道で、私らのような見知らぬ者にも挨拶を交わしてくれる。年とった人たちの表情には、都会の老人にはない穏やかな安らぎがあった。ゆったりとした時の流れのせいだろうか。自然の中で稲や野菜を育て、その成長を見守りながら創意工夫する、そんな暮らしのせいだろうか」(「山里にむすんだ青春」)
 「東京で土呂久を伝えるスピーカーになろう」と、10月13日に土呂久鉱害問題を考える会の初会合をもち、翌年8月に松尾と土呂久をまわるツアーをおこなって、被害者とのつながりを深めた。
 1983年3月、考える会のメンバーは松尾の被害者が勝訴判決を手に日本鉱業本社前でおこなった抗議行動に参加した。被害者側の要求にそった協定書が調印されたことに感動し、土呂久訴訟判決後の東京行動にそなえて準備にとりかかった。

発足したばかりの考える会(左)と土呂久を訪れたメンバー