Part3 人権回復の願い

死亡者の代弁をいたします

 1983年2月23日、土呂久訴訟は結審した。意見陳述に立った故佐藤勝さんの妻トネさんは「この席を借りて死亡者の代弁をいたします」と切り出した。
 「原告団長だった佐藤数夫さんは最後のお見舞いに行った時は、顔面は大きく腫れ上がり、目は腫れ潰れていました。『あとの事はたのむよ。せめて、判決だけでも……』。あとは声がでませんでした。腫れ潰れた眼から落ちる涙を、そっとハンカチでおさえた数夫さんのあの姿、今でも忘れる事はできません。鶴野秀男さんは『大学出の役人に小学校しか出ていない田舎者がだまされた』と、いつも悔しがっていました。病院のベッドで『もう一度でいいからみんなと一緒に裁判所に出てみたい』と言いながら亡くなったのです。佐藤鶴江さんは眼も不自由でしたが、ひどい喘息で苦しみ最後はやせて、骨と皮ばかりの痛ましい姿で亡くなりました。鶴江さんの姉のハルエさんは『裁判に勝ったら一緒に温泉にでも行って、のんびり治療したいね』と話しあっていたのですが。そんな願いも病気のために実現できず死んでしまいました。副団長だった佐藤仲治さんも『判決までは、判決までは』と言いながら肺がんで亡くなりました。鉱毒の苦しみを短歌で詠んできた佐藤アヤさん、大正年間に亜砒焼きを体験した鶴野クミさん、土呂久から筑豊炭鉱へ病気を引きずっていった佐保三兄弟、みんな生きている間に勝利の判決を聞きたいと願いながら、悔しい思いで死んでいったのです。このように、原告の半数が判決まで生きられなかったのは、必要のない証人を次々に立てて、いたずらに引き延ばしてきた被告の責任だと私は思います」

結審した日の法廷(宮崎日日新聞社提供)。右は佐藤トネさん