Part3 人権回復の願い

生きとうございます

 提訴から半年後におこなわれた第1回口頭弁論で、原告を代表して佐藤鶴江さんは、次のような意見陳述をおこなった。
 「暮れの迫った(1972年12月)27日、宮崎に連れてこられました。あっせんを受けました時に、この時初めて、知事さん、神と頼んだ知事さんに裏切られたと、本当に帰っても夜は眠れませんでした、私は。このようなことがあるのでしょうか、本当に。蝕まれ続けた私達に、300万、350万と。認定基準がもしも(昭和)48年に広がったならば、それじゃ会社に再度の補償をしていただきたいと、一筆入れておいて下さいとまで願ったんですけれども、何もかにも私達は一方的に無視されたのでございます」
 「どうしてもこらえきれない自分たちの無念さを、なんとかして住友を相手取って、私達は救済の道を開かなければならない。やはり私達には、たとえどんなに根治の見込みはないと言われましても、生きていく権利があります。また、生きとうございます。それにはどうしても、訴訟に踏み切って、この当裁判所へお願いしなければと、昨年の12月27日に提訴したものでございます。根治のない私達、苦しみ続けましたけれども、これもみな鉱毒のためでございます。どうか私達原告5人同様、心から私達に徹底的な救済を、心からしていただきとうございます。幾重にも、これまで訴え、お願い続けていく次第でございます」