Part3 人権回復の願い

土呂久訴訟始まる

 日弁連の報告と岡山大学の検診結果によって、患者救済の前に立ちはだかっていた法律と医学の険しい壁が取り払われた。守る会の落合正会長の精力的な働きで訴訟に向けた取り組みが進んだ。
 「裁判には金がかかり、負ければ屋敷や田畑を失うぞ」。そんな陰口にひるむことなく原告になったのは、屈辱の第1次知事あっせんを受けた佐藤鶴江さん、鶴野秀男さん、3次あっせんを拒否した佐藤数夫さん、仲治さん、ミキさん、認定直前に死亡した佐藤勝さんの遺族である。
 5人と1遺族は1975年12月27日、「長い忍従の生活を今日を最後に捨て去った。企業と行政によって抑圧され奪われてきた人権、生活権、福祉権、環境権を、この手で築き守っていく決意を新たにした」と宣言し、宮崎地裁延岡支部に訴状を提出した。
 翌76年3月、宮崎県労評傘下の労働組合などが「土呂久・松尾鉱害訴訟共闘会議」を結成し、訴訟にかかる資金と傍聴態勢をつくって裁判を支えた。カトリック信者の浄財を源にするカリタス・ジャパンも、孤立した土呂久の被害者を見捨ててはおけないとして、1975年から14年間、救援金を贈りつづけた。その一部は弁護士の旅費に使われて、東京と横浜の弁護士を加えた弁護団の構成が可能になった。

宮崎地裁延岡支部に提訴

第1回口頭弁論