Part3 人権回復の願い

低額あっせんで押し切られた

 1972年12月27日、7人の患者は宮崎県の車に乗せられて宮崎市に向かった。県は会場を秘密にし、患者に代理人がつくことを認めず、あっせん交渉をおこなった。県の提示した補償額は低く、納得しない患者3人に対し、夜遅くまで説得がつづけられた。
 翌28日午後、患者と住友金属鉱山の間で、知事あっせんを受諾する確認書が調印された。補償金は、最初の提示よりわずかに上乗せされて、最高が350万円で最低が200万円、半世紀にわたる健康被害の償いは平均240万円とされたのだ。
 佐藤鶴江さんは、水俣病訴訟の請求額を参考にはじいた1,660万円の補償を希望した。県の担当者は、砒素が原因で生じたのは皮膚症状だけという理由で、耳を貸そうとしなかった。鶴野秀男さんは要求額2,100万円を胸にしまいこんだままあっせんをのんだ。提示額との隔たりがあまりにも大きかったからだ。あっせん案は、住友金属鉱山の法律上の責任にはふれることなく、「名目のいかんを問わず、将来にわたり、一切の請求をしない」という請求権放棄の条項を盛り込んでいた。
 翌年3月20日、隣県の熊本地裁で水俣病訴訟の判決が言い渡された。賠償額は1,600万円~1,800万円。土呂久の補償金がいかに低額だったかわかる。宮崎県が水俣病判決前に決着をはかった理由はここにあった。

知事あっせん (宮崎日日新聞社提供)