Part3 人権回復の願い

知事の土呂久訪問

 法律扶助の審査が進んでいるころ、岩戸小学校の教師が土呂久の公害調査にとりかかった。そのことを知って、佐藤鶴江さんは1971年11月1日「調査団の皆様」あての手紙をだした。
 「私は3歳の時、父母と共に土呂久鉱山に来ました。いかに生活のためとはいえ、このような恐ろしい毒物とは知らず、もうもの心ついた5、6歳の頃はせきが激しく、のどはゼイゼイいうし、目は赤くただれ、もうその頃から医者通いが始まりました。長い46年間、入院、通院して今まで死にきれず医者の手当てを受けながら、夢もない希望もない私には、ただ、きょうの一日を生きる事が何よりの望みです」
 これを読んだ斎藤正健先生が11月5日に鶴江さんを訪問して、患者と教師の流れが一本になる。宮崎県も調査を始め、1972年7月31日「土呂久地区の鉱害にかかわる社会医学的調査」の最終報告書を発表、鶴江さんをふくむ7人を慢性砒素中毒症として認めた。
 黒木知事は翌8月1日、住友金属鉱山の社長に会ってあっせんに乗り出す意向を伝え、10日に土呂久の患者宅を回って「あっせんをまかせて下さい」と頭をさげた。弁護士2人と医師1人からなる斡旋案審議委員会がつくられて、補償内容の検討が始まった。

黒木知事は土呂久の患者宅を回った (宮崎日日新聞社提供)