Part3 人権回復の願い

立ちはだかる二重の壁

 土呂久鉱山の去ったあと、山奥に取り残されていた患者たちの耳に、ラジオとテレビが「公害」という言葉を運んできた。真っ先に反応したのはズリ(廃石)山の下で暮らしていた佐藤ツルエさんだった。1970年12月、宮崎地方法務局が開いた人権相談の会場にかけこんで、 「うちへんの米にもカドミがはいっとらせんかの」と、鉱山跡で暮らす不安を訴えた。
 法務局は12月14日に土呂久鉱山跡へ調査に出向いた。待っていた婦人が「私は公害患者です」と名乗りをあげた。佐藤鶴江さんだった。亜砒酸鉱山のそばで育ち、今なお目や胸の病気で苦しんでいるので救済してほしい、と求めたのである。
 驚いた法務局は、裁判費用の一部を立て替える法律扶助を申請するように勧めた。鶴江さんら8人の患者が申請した。審査を始めた法務局は医学と法律上の難問にぶつかった。第1の問題は、鉱山操業の影響で病気にかかったことを証明する医師がいないこと。 第2の問題は、健康被害を賠償する加害企業がはっきりしないことだった。そのころ鉱業権をもっていた住友金属鉱山に照会すると、簡単な回答が送られてきた。
 「閉山後に鉱業権の譲渡を受けたので、操業当時のことについては関知しない」
 土呂久の患者の前に医学と法律の二重の険しい壁が立ちはだかった。

佐藤鶴江さんの家には鉱毒の苦しみを詠んだ歌が貼られている