Part3 人権回復の願い

公害の時代

 1960年代の日本は、高度経済成長によってめざましく工業が発展し、その陰で深刻な環境汚染と健康被害が広がった。工場地帯から青空は消え、呼吸器の病気で苦しむ人が増え、廃液の流れこむ河川や海は汚濁し、奇形の魚が見られるようになる。悪臭や騒音や振動や地盤沈下によって、都市の生活に支障がでる。メディアは、企業の営利活動によって人の健康や生活がおびやかされることを「公害」と呼んだ。
 このままでは日本列島で生活できなくなる。そんな危機感の深まる中、健康を侵された人びとが、加害企業に償いを求める裁判を起こした。1967年6月に新潟水俣病、同年9月に四日市公害、1968年3月にイタイイタイ病、1969年6月に熊本水俣病。四大公害訴訟が相ついで始まった。1971年から1972年にかけて、いずれも患者勝利の判決が言い渡された。
 1970年11月に開かれた臨時国会は「公害国会」と呼ばれ、経済優先から環境重視に改めるための公害関係14法案を成立させた。こうした中で、1971年7月1日に環境庁(現環境省)が発足する。

4大公害のひとつ四日市公害