Part3 人権回復の願い

公害の時代

 1960年代の日本は、高度経済成長によってめざましく工業が発展し、その陰で深刻な環境汚染と健康被害が広がった。工場地帯から青空は消え、呼吸…

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立ちはだかる二重の壁

 土呂久鉱山の去ったあと、山奥に取り残されていた患者たちの耳に、ラジオとテレビが「公害」という言葉を運んできた。真っ先に反応したのはズリ(廃…

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知事の土呂久訪問

 法律扶助の審査が進んでいるころ、岩戸小学校の教師が土呂久の公害調査にとりかかった。そのことを知って、佐藤鶴江さんは1971年11月1日「調…

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低額あっせんで押し切られた

 1972年12月27日、7人の患者は宮崎県の車に乗せられて宮崎市に向かった。県は会場を秘密にし、患者に代理人がつくことを認めず、あっせん交…

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あっせん受けた患者の無念

 わたしとしては、身体全体の症状について、補償を認めてほしいといいました。ところが、砒素による症状は皮膚に限られるとするのが、いまの科学の限…

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失意のどん底から立ち上がる

 佐藤鶴江さんと鶴野秀男さんは失意のどん底から立ちあがり、1974年1月に山形県で開かれた日教組教育研究全国集会にでかけた。すさまじい鉱毒体…

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知事さんはおらぬか

 宮崎県は毎年、土呂久住民の健診をおこない、新たに見つかった砒素中毒患者を認定した。1974年2月に認定された13人のうち10人が被害者の会…

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土呂久の“歌詠み”

 認定患者が少しずつ増えていくのに、自宅で寝たきりの佐藤アヤさんには、なかなか認定の通知が届かなかった。アヤさんは、不自由な右手にボールペン…

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我が魂の叫びなり

 時に触れ折に触れして、三十一文字に託して詠む歌は、うたには非ず、苦しみに耐え抜く我が魂の叫びなり。昨日も今日も又明日も、萎えし右手にくくり…

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全国の皆様見てください

 全国の皆様見て下さい。  鉱害の為、永い年月積み重ねられて来た怒り、苦しみ、悲しみのうっ憤を腹の底からたたき上げてみます。真相はこうです。…

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板ばさみのあっせん

 佐藤アヤさんは子どものころから呼吸器、心臓、消化器、運動障害などで苦しんできた。1973年2月に診察した名古屋大学の大橋邦和医師は、亜砒酸…

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目指すは知事あっせん無効

 宮崎県知事は、認定患者と住友金属鉱山の間にたって、1972年から1976年まで5回にわたり総額2億5460万円の補償あっせんをおこなった。…

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日弁連の報告会

 1973年の夏、横浜の加藤満生弁護士は5期先輩の矢島惣平弁護士から「宮崎の山奥に、力になってくれる医者も弁護士もおらず窮地に立たされている…

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岡山大学医学部の自主検診

 名古屋大学の大橋邦和医師の働きかけで、岡山大学医学部衛生学教室が1974年10月、土呂久公民館で104人の住民と元労働者を対象に自主検診を…

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土呂久訴訟始まる

 日弁連の報告と岡山大学の検診結果によって、患者救済の前に立ちはだかっていた法律と医学の険しい壁が取り払われた。守る会の落合正会長の精力的な…

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生きとうございます

 提訴から半年後におこなわれた第1回口頭弁論で、原告を代表して佐藤鶴江さんは、次のような意見陳述をおこなった。  「暮れの迫った(1972年…

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被告はあらゆる点で争った

 土呂久訴訟は、公害裁判で一般化していた「包括一律請求」の考えにそって患者1人の損害を3000万円とし、1割の弁護士費用を加え、知事あっせん…

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死亡者の代弁をいたします

 1983年2月23日、土呂久訴訟は結審した。意見陳述に立った故佐藤勝さんの妻トネさんは「この席を借りて死亡者の代弁をいたします」と切り出し…

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松尾鉱山被害者が全面勝利

 宮崎県木城町の旧松尾鉱山は、土呂久と同じように亜砒酸を製造していた鉱山である。1953年、土呂久鉱山職員が亜砒焼き再開に反対する住民を説得…

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土呂久被害者一審で勝訴

 松尾判決から1年後の1984年3月28日、宮崎地裁延岡支部は土呂久訴訟の被告住友金属鉱山に、原告の請求総額の7割にあたる5億622万円を支…

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金より体を元に戻してほしい

 両足のマヒした佐藤正四さんは、土呂久の自宅で家族に囲まれて、裁判所前からのテレビ中継を見た。自宅を訪れた新聞記者の質問に「裁判に勝っても、…

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裁判を延ばすなら人間じゃない

 原告の佐藤高雄さんは、高千穂町病院の病室で妻のモミさんから介抱されながら、「住友にわしの苦しみを直接聞かせたかった。住友は控訴しちゃいかん…

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土呂久を伝えるスピーカー

 東京では1980年代初め、土呂久公害に関する川原一之著「口伝 亜砒焼き谷」、映像集団エラン・ヴィタルの記録映画「咽び唄のさと 土呂久」、芥…

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私たちの骨を拾ってください

 土呂久の被害者は、一審勝利判決翌日の1984年3月29日に上京し、考える会の準備した「住友交渉を成功させる土呂久東京行動総決起集会」に参加…

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二陣原告が提訴

 東京行動の目的のひとつは、被害者の会が住友金属鉱山と補償協定を結び、その内容を原告以外の患者にも適用させることだった。それが実現できなかっ…

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苦渋の控訴審勝利判決

 福岡高裁宮崎支部で1984年8月27日に第1回口頭弁論が開かれて、一陣控訴審の幕があいた。住友金属鉱山は争点のすべてを蒸し返して全面的に争…

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都会の情けを知った56日間

 控訴審判決の近づく1988年9月19日、土呂久の被害者5人は「社長さんに会って上告しないように言いたい」と、支援者30人とともに東京の住友…

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裁判と法を両立させた

 第2期東京行動はみるべき成果もなく終わり、高裁判決で命じられた返還金の重圧と長期裁判の不透明さが、土呂久をおおった。高齢化する被害者の胸の…

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最高裁で和解成立

 二陣判決から3週間後、弁護団は最高裁におもむいて職権による和解を要請し、5月にその旨の上申書を提出した。それを受けた最高裁は、原告・被告そ…

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刀折れ矢尽き旗をたたんだ

 原告たちは、土呂久山荘に集まって東京からの連絡を待った。1990年10月31日午前11時10分、NHK総合テレビに「宮崎県高千穂町土呂久鉱…

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残された患者の即決和解

 裁判に加わることを嫌い、行政や企業との円満な話し合いを求めて「土呂久鉱害補償自主交渉の会」を結成した患者がいた。最高裁和解が企業の責任に触…

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