Part2 土呂久鉱毒史

出水事故から閉山へ

 煙害で困っていたある農民は、中島鉱山の社長にあてて匿名の手紙を投函した。
 「亜砒焼キヲヤメヨ。ヤメヌナラ、ウチニアル府内山弥ノ位牌ヲ川ノ底ニ沈メテヤル。ソノタタリデ鉱山ニ水ガ出テ、採掘ガデキヌヨウニナルデアロウ」
 それから半年後の1958年7月、大切坑の地下110メートルの坑底で水が湧きだし、坑道が水没して、土呂久鉱山は休山した。手紙をだした農民は、願いどおりになったことに驚いた。
 経営再建に乗り出したのが住友金属鉱山だった。住友鉱は、それまでに土呂久産の鉛、亜鉛鉱を買って、自社の製錬所に運んでいた。1959年3月、中島鉱山を子会社にして操業を再開、大切坑より上部で鉱石を掘って、亜砒酸製造もおこなった。
 全国の中小鉱山が、外国から輸入される安価な鉱石に太刀打ちできず、次々と閉鎖される時期に入った。1962年12月、土呂久鉱山は閉山、山弥が開発してから350年の歴史に幕をおろした。
 毒の煙は42年ぶりに土呂久の谷から完全に姿を消した。

日向日日新聞(1958年7月24日)