Part2 土呂久鉱毒史

再び煙害が始まった

新型焙焼炉

 戦前の窯より100メートル高い場所に新型焙焼炉がつくられた。1955年3月、鉱山は14年ぶりに亜砒焼きを再開し、平和だった土呂久の谷に再び煙が流れ始めた。
 鉱害を判定するために鉱山周辺に椎茸の駒をうった。椎茸が芽をださなかったので、村人が煙害を抗議すると、鉱山は「椎茸を入れた場所が悪い」と応じなかった。
 1959年4月、和合会は高千穂町長(1956年に岩戸村は高千穂町に合併)に鉱山施設の改善を斡旋するよう陳情書を提出した。
 「土呂久鉱山亜砒酸炉建設の際此の亜砒酸製造が農業経営上被害甚大なるを恐れ私共部落民は之が建設に極力反対をなしたるも此の事業が地下資源開発と旧岩戸村繁栄に貢献を為すものであることを痛感し(略)事業経営に協力をしてきたものであります。
 然し乍ら現在までに覚書内容の契約事項が履行されないのみならず次の点について被害が多いので町当局に於て土呂久鉱山に対し之が施設の改善と契約履行(地区民としては施設廃止希望)について斡旋を賜るよう部落民を代表して陳情致します。

             記
一. 吐煙量多き為、植林、牧草の生育不良、椎茸不作、みつばちの死滅」