Part2 土呂久鉱毒史

絶対反対から条件付き賛成へ

 「過去の悲惨なるアヒサン煙害による実情に鑑み、土呂久鉱山中島鉱業所のアヒサン焼築炉計画には、地元民として絶対反対の意を表明し、ここに連名にて署名捺印す」
 1953年7月、土呂久の住民は反対請願書をつくって署名した。同年12月11日の和合会総会は「試験焼ニテモ焼イテモラッテハ困ル」と全員一致で決議した。
 その直後から、鉱山と岩戸村と宮崎県西臼杵支庁による和合会の切り崩しが始まった。「改良窯だから煙害の心配はない」「害がでたときは中止するから試験焼きをやらせてくれ」。決め手になったのは「亜砒焼きを認めれば、鉱山は和合会に協力金30万円を渡す」というものだった。「一人でも反対すれば30万円はもらえん」という声が大きくなった。
 鉱山周辺農家の「絶対反対」の声を押し切って、和合会は条件付き賛成に転じた。1954年2月27日の和合会議事録に「満場一致デ条件ノ案作成ヲ県、支庁、村長ニ一任スル事ヲ約ス」とある。

写真・和合会議事録 (昭和28年12月11日反対決議と昭和29年2月27日条件付き賛成)