Part2 土呂久鉱毒史

敗戦後の土呂久鉱山

 敗戦の年1945年12月、GHQは中島知久平に戦争をおし進めた容疑でA級戦犯の逮捕状をだし、翌年、中島財閥に解体命令を発した。中島門吉らに代わって、若手幹部が役員に就任し、1948年3月、新生「中島鉱山(株)」のもとで土呂久鉱山は戦後の出発をした。第3期「中島鉱山の時代」の始まりである。
 戦後すぐ、住民の反対が強くて、土呂久で亜砒酸製造を再開することはできなかった。掘り出した砒鉱を、よその製錬所に売ったり、よその製錬施設を借りて焙焼したりした。砒鉱の産出量が増えて、新型の亜砒酸炉建設を計画したのは1952年9月のことだった。鉱山は1953年初め、和合会に亜砒焼き再開を申し入れた。
 「昔の窯と構造が異なり、煙害の心配はない。焙焼を再開して鉱山が発展すれば、地域の繁栄につながる」
 この説明に土呂久はまっぷたつに割れた。農家は「煙をださずに鉱石が焼けるわけがない。だまされちゃならん」と反対し、非農家は「鉱山がさかんになれば、仕事がふえる。金とりもようなる」と賛成した。仲のよかった和合会が再び喧嘩会になった。

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