Part2 土呂久鉱毒史

土呂久をつぶさせちゃならん

 和合会は1941(昭和16)年2月19日の総会でこう決定をした。
 一.和合会鉱山契約満了ノ件
 鉱山関係ノ契約ハ全員ノ一致ニ拠リ中止ノ事
 和合会は鉱山との間で、亜砒酸製造を認めるかわりに亜砒酸1箱(60キロ)に付き12銭の交付金を受け取る、という契約を結んでいた。5年間の契約切れを迎え、煙害のひどさにたまりかねて、契約の延長はしないと決めたのだ。すぐに福岡鉱山監督局から「代表が出頭して事情を説明せよ」と連絡がきた。和合会の代表6人がでかけると、監督局の職員は頭ごなしに叱りつけた。
 「地下資源を少しでも余計にとらねば、お国のためにならんじゃないか。内地で必要なものは内地でつくる。それが国策に従うことだ。非常時には、むらの一つ二つつぶれても鉱山が残ればよい」
 土呂久の人たちは「戦時とはいえ、むらをつぶしてもいいとはひどすぎやせんか。ご先祖様の開いた土呂久をつぶさせちゃならん」と反発した。
 明治以降、一方に「農は国の本なり」、他方に「鉱山は富国の源」という標語があった。鉱毒事件の中でこの二つがぶつかった。戦争への道を走りながら、政府は鉱山を保護し、土呂久を見捨てた。

1863年に開通した上寺用水(右)と1855年に開通した東岸寺用水(左)