Part2 土呂久鉱毒史

農地を守った百姓魂

 佐藤仲治さんは1910年に土呂久で生まれた。小学4年生のとき、家の斜め下の鉱山で亜砒焼きが始まった。蜜蜂が姿を消し、椎茸が芽をださず、畑の大豆は枯れ、梅や柿は実をつけず、竹林は全滅した。牛がコホンコホン咳をしてよろよろと歩くようになった。換金産物が煙害にやられ、農業で暮らしていけなくなった仲治さんは、鉱山に働きにでた。鉱山が仲治さんにやらせたのは、鉱毒被害の元凶の亜砒焼きだった。
 「なんとかして亜砒焼きをやめさせるこたでけんものか」
 そればかり考えて硫砒鉄鉱を焼いた。渦巻く毒煙に身をさらす危険この上ない仕事だった。
 ある日、鉱山の職員が仲治さんの家に来て、「土地を売らないか」ともちかけた。鉱毒のせいで農地には作物が育たない。父親が「鉱山に売った方がよわねえの」と弱音をはいた。仲治さんは「俺が鉱山で働いて生活を立てる。ご先祖さまから預かった土地は絶対に手放さん」と反対した。
 土地を守った代わりに、鉱山で働いた仲治さんの体が砒素で侵された。耳鳴りやめまいがひどくなり、50代半ばで働けない体になった。肺がんにかかり、やせ衰え、激痛に耐えながら、1981年9月に71歳の生涯を閉じた。
 鉱山は、鉱脈が尽きれば土呂久をでていく。そんな一時の栄華に屈することなく、自分の体を犠牲にして、先祖伝来の農地を守りぬいた。仲治さんの百姓魂は<殉農の思想>と呼ぶにふさわしい。

佐藤仲治さん(左)が守った農地(上)。対岸の山裾に亜砒焼き窯が並んでいた