Part2 土呂久鉱毒史

反射炉による煙害

土呂久鉱山と東岸寺選鉱場を結ぶ索道

 1935年9月、土呂久の南4キロの東岸寺に選鉱場が建設された。土呂久と中野内で採掘した鉱石を索道で運び、砕いたあと、揺動テーブルを流しながら、比重のちがいで鉱石を選り分けた。選鉱された錫鉱は、ふたたび索道で土呂久に送り返された。
 1936年の夏、土呂久鉱山の大切坑のそばに反射炉が築かれた。天井を球面にした部屋の真ん中に熱を集め、錫鉱を焼いて、分離精製する装置である。 錫鉱に含まれる砒素は、反射炉で焼かれると、亜砒酸になって煙とともに飛び立った。反射炉には亜砒酸を収集する部屋がついていなかったため、亜砒酸をふくむ煙が周辺の農家を襲った。畑に白い粉が降り、農家は汚染された野菜を食べることができなかった。茶摘みの時期には、雨が降って亜砒酸を洗い流したあと、茶の葉を摘んだ。
 和合会議事録は「煙害甚ダ多イタメ寸時モ待ツ事出来カネルタメ、今回委員ヲ選定シ、一時モ早ク設備ヲ急グ様申込」などと、反射炉による煙害の激しさを記録している。
 和合会の抗議を受けて、鉱山は煙害防止策として、反射炉に収砒室を付設した。村人は「反射炉による煙害がもっとも被害がひどかった」と振り返る。この煙害は約1年間つづいた。