Part2 土呂久鉱毒史

中島飛行機の系列に

 戦前の土呂久鉱山の経営は、第1期「鉱山師(やまし)の時代」(1920年~1933年)と第2期「岩戸鉱山の時代」(1933年から1945年)に分けることができる。
 第1期に鉱業権を持っていたのは竹内令さく(貝へんに乍)で、その権利を借りて、佐伯からきた野村金吾、川田平三郎らが鉱山を経営した。事務所には「九州興産商会野村鉱業所」の看板がかけられ、生産された亜砒酸は、この会社から神戸の貿易業者に送られた。鉱石採掘、亜砒焼き、坑外作業に従事する労働者は合わせて20~40人の小規模鉱山だった。
 鉱山の規模が拡大するのは、錫の鉱床が発見されて、中島飛行機の子会社中島商事の経営に移ってからである。新興の中島財閥は、軍用機の製造に必要な錫の国内開発を進め、1933年に土呂久鉱山の鉱業権を取得する。1936年12月に岩戸鉱山(株)を設立し、土呂久の4キロ南に東岸寺選鉱場、60キロ東の延岡市に土々呂製錬所を建てた。採鉱、選鉱、製錬を一貫しておこなう近代的錫鉱山に生まれ変わった。最盛期には数百人の労働者が、錫を主、亜砒酸を副次的産物として生産した。

岩戸鉱山最盛期の写真