Part2 土呂久鉱毒史

亜砒酸生産の二重構造

 戦前の日本で、亜砒酸生産量のもっとも多かったのは、栃木県の足尾銅山だった。足尾鉱毒事件は、有毒な廃石や鉱滓が渡良瀬川に流れ込み、下流の農地に深刻な被害をもたらして起きた。同時に、足尾製錬所周辺の山々は、煙によって草木が枯れて禿山になった。原因物質は亜硫酸ガスと亜砒酸だった。
 製錬所は1918年、カリフォルニア大学のコトレル教授が開発した電気集塵機を煙突に取り付けた。亜砒酸を回収し、純度を高めて、商品として出荷した。最新の技術が、煙害を防ぐとともに、副産物の亜砒酸で収益をあげ、一石二鳥の効果をもたらした。亜砒酸が輸出品としての価値をもち始めた時期のことだ。
 大規模鉱山が近代技術をとりいれたころ、土呂久のような小規模鉱山は、前近代的な窯で亜砒酸を製造した。不況のとき、小鉱山は人員削減や休山に追い込まれ、それを防波堤にして、大鉱山は不況の影響を最小にくいとめた。
 こうした経済の二重構造の陰で、土呂久の鉱毒被害は起きた。

昭和初期の土呂久鉱山