Part2 土呂久鉱毒史

亜砒焼き労働者(2)

 じいさんの徳蔵さんが死になさったのは、私が小学5年生のときやった。ばばさんのシカノさんは、終戦になった年じゃき、昭和20年の10月に死んだ。夫婦で土呂久鉱山にどのくらい行っとったかの。仕事は、亜砒の粉を丸めてだんごをつくる亜砒焼きたい。いちばんいかん仕事しよらした。徳蔵さんは、医者にかかると「ぜん息」ち言われたごつあった。ぜん息んまま、ゼゴゼゴいうて咳がとまらずして、死んだときは60いくつやったかの。シカノさんもぜん息が出て、全身がまんまるう、へそもはれて、はれたまんま死んでしもた。
 おっかさんのアキノさんも、じいさんばばさんといっしょに鉱山へ出よらした。亜砒焼きの仕事して、心臓も悪いとか言われよったが、ぜん息の気がでて、痰に血が付き苦しみながら死になさった。「ぜん息、ぜん息」ち言うばっかりで、わからんちゃ、田舎の医者には。おっかさんの咳が激しいとき、あんまり激しゅう咳しよると血を吐きよった。まちっと早う、なんとかなっとれば、手の打ちようもあったろうに。医者の言うとおりにしたもんじゃけ。日役がちと高かったから、それだけに迷らせて、みんな亜砒焼きに行ったっちゃが。孫、子を太らすために行ったっちゃろ。一日、今にすれば何百円もちがうんで、それで無理したとよ。
(佐藤イワ子さんの話)

1933年の土呂久鉱山記念写真 後ろから2列目左から6番目が徳蔵さん 前から2列目左から6人目(じいさんの前)がシカノさん