Part2 土呂久鉱毒史

黙殺された解剖書

 甲斐村長は1925年4月9日、斃牛の臓物をつめた小瓶と解剖書を持って宮崎県警察部衛生課にでかけ、斃牛の死因を特定するための毒物鑑定を依頼した。県の役人から「瓶に封印がないから、本ものかどうか信用できない」と言われ、「地元の村長がもってきたものだ。そんな疑念は無用」と怒って、甲斐村長はそのまま預けて帰った。いくら待っても鑑定結果は届かなかった。宮崎県は、村人の願いを握りつぶしたのである。
 そのときのことが4月11日の日州新聞に載っている。  
 「斃牛から亜砒酸検出し、それによって死因を決定するには、斃死当時から解剖、検出に至るまで現場に至って細密なる注意を行わなければ、死後アヒサン分が附着した場合でも同じ検出結果となるので、アヒサンの存在を認めても、それが必ずしも死因であったと早断するに躊躇する理由あり」「同斃牛は発病後数ヶ月にして死んだものであるので、アヒサン中毒によるものとは思われぬ節あり、或は結核性疾患が直接死因ではないかともみられている」
 現場を訪れて被害の事実を直視することなく語られた、こうした見解の裏に、鉱業を重視して農民の声に背を向けた行政の姿勢を読み取ることができる。

甲斐徳次郎村長と日州新聞記事(左)