Part2 土呂久鉱毒史

死んだ牛を解剖した

斃牛を解剖した鈴木日恵さん

 1925年4月6日、土呂久でメス牛が死んだ。村人は「原因究明のために死んだ牛を解剖してほしい」と岩戸村の甲斐徳次郎村長に依頼した。村長は翌7日、鈴木日恵獣医を土呂久に派遣し、死んだ牛の解剖をおこなった。岩戸村の「村政永久史料」というファイルに綴じてあった解剖書は、こんなふうに書いている。
 「死んだ牛の目はくぼみ、腹のまわりはふくれあがっている。毛をつまむと簡単にぬけた。皮下脂肪はほとんどなく、はなはだしい栄養失調である。あごの下とのどの奥のリンパ腺ははれあがって、うみがたまっている。肺はくらい紫色をして肝臓のようにかたくなっている。第一胃と第二胃にガスがたまり、黒くなった粘膜が胃の壁からはげている。第三胃は、乾燥した固いものでほとんどふさがり、まん中の小さな孔を通して第四胃につながっているだけだ。呼吸器と消化器をおかした有害物質は、血液をとおして全身の組織にまわり、肝臓、腎臓、心臓、神経にも影響を与えている。原因物質は、呼吸器あるいは消化器だけをおかすものでなく、全身に病気をもたらしたと考えられる。病気の牛の症候、まわりの草木や動物の事情から推察すると、連続する有害物の中毒ではないかとの疑いを深くする」(漢字とカタカナの原文を読みやすく改めた)
 この解剖書は、土呂久公害が社会問題化したあと47年ぶりに日の目を見た。鈴木獣医は、訪ねてきた新聞記者から「連続する有害物とは何か」ときかれ、「亜砒酸中毒による死亡と考えました」と答えた。ただし、そう断定するには「死んだ牛の臓物から砒素を検出することが必要だった」と付け加えた。