Part2 土呂久鉱毒史

猛毒をつくった窯の仕組み

 1920年6月、土呂久川沿いの斜面に石を積んだだけの登り窯が築かれた。坑内から掘りだした硫砒鉄鉱をくだき、素手で握って団鉱にして焼いた。最盛期には、7 、8基の亜砒焼き窯からたちのぼる煙が狭い谷間をおおい、動植物に深刻な被害をもたらした。
 この窯による亜砒酸製造は1941年に終わった。どんな仕組みの窯だったのか。絵図を描いて残したのが舞台芸術家の妹尾河童さんだった。1982年に土呂久に来たとき、古老の話をききながら亜砒焼き窯の復元図を作成した。
 窯は4つの部屋に仕切ってあった。手前の燃焼室で、硫砒鉄鉱とともに燃料の薪が燃やされる。鉱石が焼けると、亜硫酸ガスと亜砒酸ガスが煙といっしょに流れ出す。奥に3つの集砒室が設けてあり、昇華点以下にさがって固化した亜砒酸の微粒子は、その部屋に凝集して沈降する。1号室にたまった亜砒酸は純度99%以上で、そのまま商品になり、2号室と3号室の亜砒酸は精製窯で焼きなおし、純度を高めて出荷した。
 集砒室で沈降しなかった亜砒酸は、土中の煙道をくぐって、煙突から谷間にはきだされて煙害をひきおこした。

亜砒焼き窯復元図(画・妹尾河童)